大学時代の恩師:宇井理生先生(文化功労者)

今年、文化功労者に選ばれました

『宇井理生』先生。(Gタンパク質機能解明)

私の大学時代に薬理学を教わった先生です。

宇井先生のお父さんは東大の哲学の教授で、お弟子さんに中村元先生が居ます。

宇井先生の講義は、とても貴著面で研究の背景からその研究結果がどう社会的な役割を果たしたのかをされてました。

私の大学時代の授業の中でも面白い内容で、今の私の基礎を作って頂いた先生の1人です。

その人柄が出ています宇井理生(うい みちお)先生が臨床研名誉所長として寄稿した文章です。

【研究者の優劣】

 コンピューターの普及が原因か、ディジタル思考が流行る世の中になった。「よい」か「悪い」かという基準で、ある集団をディジタル的に分類すれば、結果 は統計学的には二項分布を示す。ヒトの集団は種々雑多なヒトの集まりだから、すべての性質の程度の違いは正規分布するはずで、ディジタル思考は誤りという ことになるが、基準を多数設定すれば、結果は限りなく正規分布に近づき、正しい評価になるはずである。私は研究者を評価するときに単なる優劣以外にもう一 つ極めて重要な判断の基準があると思うので、その基準を併用すると、2×2=4種にクラス別される。もう一つの基準とは、正しい自己評価ないしは自己認識 が出来るか出来ないか、である。

 最高のクラス-1は、研究能力の点で優秀であり、且つ自分が優秀であることを意識して行動する研究者である。クラス-2は研究能力はクラス-1に比べて 見劣りするが、それを自分で自覚して行動する群である。クラス-3は優れた研究能力を持ち、従って他に影響を与える立場にいるにも関わらず、それに気付か ずに自分勝手に振る舞う研究者である。クラス-4は、優秀ではないのにそれを認めようとしない人たちである。どんなヒトにも得手、不得手はあるもので、あ る面では優れ、ある面では見劣りするということは必ずある。得意なものを生かして勝負すればよいので、クラス-1とクラス-2との間にそれほど大きな差が あるとは思えない。しかしクラス-1、2とクラス-3、4の間の断層は限りなく大きい。研究能力よりも自己認識の方が重要なクリテリオンなのだ。

 大学の研究者が大学外部の研究者に比べて恵まれているのは、前項に記した通りである。しかし、一流大学と言えども、図体が大きいから、その中には能力的 にやや物足りない教授も存在する。また、大学では学長、学部長といえども講座の運営その他教授の言動に対し助言、指導をすることはできない。その結果とし て、クラス-3、クラス-4に属する教授がウジャウジャいる。一流大学は一部の教授の優れた業績によって「一流」と称されているのであって、私の印象では 四つのクラスには略々同数ずつの教授が属している。出来の悪い教授も優れた教授と同じ権限を常に主張し、学(部)内の平和のためにそのような理不尽な主張 も通る場合が多い。

 結論を先に言ってしまおう。私は所長就任以来クラス-3、クラス-4の研究者を減らす努力を絶えず続けてきた。大学と違って当研究所では、部門長以下全 所員を指導する権限も責任も所長に実質的に与えられている。私は部門の自治を百パーセント尊重し、部門内のすべてを部門長に任せて一切口を挟まなかった。 しかし部門内でトラブルが発生した時には、部門長の責任を厳しく追及した。トラブルの原因はほとんどが部門長の部下研究員に対する不当な処遇である。当研究所では全部門に定員を定めていない。不当な処遇を受けた研究員は、直ぐに、本人の希望にしたがって、クラス-1と私が評価する部門長に事情を説明して引 き取ってもらい、その後のポストは補充しなかった。その結果思わぬ効果も生まれた。このような繰り返しで、常勤研究員がほとんどゼロという研究部門がいくつかあるのだが、その部門長は若手研究員の教育育成の能力も興味も自分にはないということを自覚し、研究所外の複数の研究グループとの共同研究に主力を移したのである。研究手法を異にする研究グループが混在することは研究所にとって却って望ましい。外部の幾つかの有力研究グループが継続的に研究員を送り込んでくるのだから、その部門長の研究実績も研究能力も十分評価されているということである。常勤研究員はほとんどいなくても、これらの研究室は他の研究室 同様活気に溢れ、もともとクラス-3またはクラス-4に評価されたこれら部門長は、クラス-2どころかクラス-1に昇格したことになる。

 他の研究所とは違って、臨床研では室長も部長も部門長としては同格である。どんなに若い室長を迎えても、その上に部長はいない。互いに独立した部門長は キャリアの長さや業績に従って、最初から室長だったり、部長だったり、または途中で室長から部長に昇格したりするのである。ところが不思議なことに、室長の上に部長クラスの人間がいて、何かとその研究部門の運営に口を出すという部門が私の前々所長の時代から一つだけ存在した。その研究室で屡々トラブルが起こる。調べたところその元凶は常にその部長クラスの人間であることが判明した。私は即刻その部長の部門内への立ち入りを禁止した。もっとも、これは発令行為を伴うものではないので、物理的に立ち入らせないことが必要で、机や資料の撤去など、その時の管理部長には大変なお骨折りをお願いすることになってしまった。しかし驚くべきことに、この部長クラスの口出しを排除しただけで、新しい研究員を補充したわけでもないのに、その研究部門の研究業績は見る見るうちに向上し、内部評価で全部門中5位以内に入るという快挙が実現した。実力を磨くこともせずにただただ漫然と歳をとっただけの存在に権限を持たせることが 如何に有害か、その見本のような話である。

 前号で新井新顧問が、私が医薬研究開発センターを設立した、と評価して下さったが、自惚れて言えばこのセンターは私だから出来たのかも知れない。もちろん、センターの設立、運営に当たって矢原、米川両副所長に大変な御尽力を戴いている。この研究センターの設置の目的の一つは、放置すればクラス-4にラン クされ兼ねない研究者達をクラス-2ないし1にランク付けすることであった。不運にも研究所内外で研究グループのリーダーに選任される機会を与えられな かったシニア研究者達に、ささやかながら自らの研究の夢を推進する機会を提供することも研究所としての大事な配慮である。

 クラス-3、クラス-4の研究者の数をゼロにすることは難しい。一定以下の能力の研究者には自己を正しく認識する能力もない。しかしながら、クラス -1、クラス-2の研究者が圧倒的多数を占めると、クラス- 3、クラス-4の研究者が研究所全体の雰囲気に影響を与えることは事実上無くなる。クラス-1、クラス-2 の研究者は他の研究部門や研究所全体に対する気配りを忘れない人たちだから、研究所のウイークポイントとして先に挙げた研究所全体としてのまとまりも実現 し、連帯意識も醸成され、明るい雰囲気の研究所が実現した。クラス-3、クラス-4の研究者多数を擁する一流大学に比べて、我が研究所は誇るに足る存在な のである。もっとも規模の大きな大学と臨床研のような小さな研究所を比較すること自体無茶な話だから、私はおめでたいだけでなく、詭弁を弄する男だと批判 されることになるのだろうが。

【アメリカの研究者社会】

 生命科学の領域で日本の研究者も必死になって頑張っているのだが、残念ながら日々表に出る研究成果のレベルに関しては、依然としてアメリカの方が日本よ りはるかに高いことは、種々の統計値が示している。その原因として、多くの日本人はアメリカにはトップクラスの研究者が大勢いて彼等が優れた業績を挙げ続 けている、と思っているようだが、またそれはそれで事実なのだが、実際にはアメリカには上述のクラス- 2の研究者が大勢いる。それがアメリカの研究者社会の大きな強みになっている。アメリカの大学教授の何割かは、日本の平均的な大学教授に比べて研究能力も 研究実績もむしろ低い。彼等は、実に古臭いテーマにしがみついている。それは彼等が20年も前にポスドクとして初めて仕えたボスに与えられたテーマそのま まなのである。私は彼等のうちの一人に尋ねた。「何故そんな古い誰も見向きもしないテーマに執着するのだ? 新しい視点や技術を少し採り入れれば、今流行 りの面白いテーマになるではないか。」彼は答える。「そのようなテーマは私よりはるかに優秀な人たちが手掛ける。彼等と競争して私が勝てるはずがない。今 のテーマを続けていれば、競争相手も私と同程度の能力の連中だから、私なりのデーターが出て、教授の職も一応全うできる。」

 生命科学では、ちょっとした実験事実から思い掛けない周辺領域への進出が必要になることが間々ある。今まで研究の中心ではなかった領域が脚光を浴びるの である。そんな時、日本ではそのようないわば辺鄙な領域の研究を続けている人は全くいないのが実情である。しかしアメリカでは必ず誰かがその領域にいる。 このクラス-2の研究者である。その今まで誰も顧みなかった研究が脚光を浴びることになるが、そこには優秀な研究者が必ず駆けつける。その場合このクラス -2の研究者は自分の「優先権」など主張しない。長年培ったその領域独特の技術やノーハウを惜し気もなく自分よりはるかに年若な参入者に提供して、共同研 究者または研究支援者の立場に甘んずる。このようにして、この新しい分野の研究も遅滞なく進歩するのである。

 このような特殊な事態を想定するまでもなく、クラス-2の研究者は常にクラス-1の研究者が優れていることを認め、その研究を支援する役割を嬉々として 勤める。このクラス-2の存在は非常に貴重である。クラス-2の研究者が多いのでその人数分だけクラス-4の研究者が少ない。そればかりかクラス-3の研 究者を減らす結果となる。日本の大学のように、出来の悪い教授も優秀な教授と同じ権利、処遇を常に要求すれば、優秀な教授は正当な評価を与えられないこと になり、彼等だって自己中心的な行動をとらざるを得ないだろう。クラス-3に転落することになる。しかしアメリカなら優秀な研究者は、自己の業績が認めら れていることに感謝し研究支援者の立場を尊重して、その組織内での争いを避ける努力を惜しまないだろう。その結果クラス-3からクラス-1に昇格する。こ のようにしてアメリカでは日本よりクラス-1の研究者が多いのである。

 四つのクラス分けは研究者の世界に限った話ではない。非研究者でこの拙文に目を通して下さった方は、御自分の属する組織にもこのクラス分けが適用できる という感想を持たれるに違いない。「あの課長はクラス-1だが、この課長はクラス-2だナ。しかし二人とも組織にはそれなりに貢献しているナ。」などな ど。しかし、このクラス別の問題は研究者の世界で最も深刻なのである。研究者は大学学部をそれなりの成績で卒業し、大学院の課程を終えて学位を取得してい る。因みに、我が臨床研では、常勤研究員はもちろん、常勤的流動研究員に至るまで、学位保持者を採用している。研究者はいわばエリート集団を形成してい る。その中でどのような基準を適用するにしてもクラス分けをすることは容易なことではない。しかし、一方では国の定めた「科学技術基本計画」ではその第一 期に既に、研究者二人当たり一人ないし二人の研究支援者を置くことを定めているのである。平等と公平を謳う日本社会で、クラス-2の研究者をどのように養 成したらよいのだろうか。

【noblesse oblige】

 優秀な研究能力を有する研究者は自己の優秀さを自覚して行動するべきであると説いた。それでこそクラス-1の研究者なのである。自覚して行動するとは具 体的にはどういうことか。それはnoblesse oblige を守ることである。ある社会において、幸いにして才能に恵まれて一定の地位を与えられ、一定の権限を行使する立場に立った者は、その社会全体特にその権限 の及ぶ範囲にいる人たちに対して、常に道徳的な配慮をする義務を負う。部門長に選任されて、小なりと言えども一つの研究グループを主宰する立場になれば、 そのグループに属する全員が安穏に生き生きと仕事に取り組めるよう、気を配らなければならない。その結果研究成果が挙がるのである。研究成果を挙げること を優先して、自らのグループの中のたとえ一人でも不幸に泣くようなことがあってはならない。私が全部門長にこのようなnoblesse oblige を厳しく求めたことは既に述べた。

 また優秀な研究者なら研究費を獲得するチャンスも高額機器を購入できる機会も多くなる。それを独占する権利はあるのだが、やはりその恩恵を可能な範囲で 研究所全体に、または周辺の研究室にも少しでも及ぼすような配慮も求められる。その点で、最近文部科学省の一部の大型研究費に3割の間接経費(オーバー ヘッド)が付随するようになったのはよいことである。間接経費が認められた最初の年に、私はたまたま某国立大学の学長と雑談したことがある。その学長は間 接経費を獲得した教授がこれは自分の研究費だと言い張って学部に一円も還元しようとしない、と言って嘆いていた。我が研究所にはそのような不埒な部門長は 一人もいない。やはり、臨床研は国立大学より優れた研究機関である(!?)。

<お問い合わせ先>

札幌市白石区南郷通7丁目北5-1 駐車場有

 有限会社 中村薬局 認定薬剤師 中村峰夫 011-861-2808

https://www.kanpo-nakamura.com/

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